参加者:中村理、清水恵み、佐々木すーじん、原島大輔(ゲスト) 日時;2023年6月20日 場所:scool
各パフォーマンス・サマリー(出演順)
中村:コンロで沸かすお湯とダンスでセッションしたり、他人が選んだ初めて聴く音楽で踊った
清水:観客に自家製ピクルスと自家製ジュースを振る舞い、折り紙の束から指定された色が出るまで一枚ずつお客さんに引いてもらった
佐々木:マイクと小型アンプを使い自身の呼吸音で即興。行き詰まったり、間違ったと思ったらベルを「チーン」と鳴らし仕切り直した
佐々木:皆さま、最後まで残って頂いてありがとうございます。トークゲストの原島大輔さんです。原島さんは色んな分野のものについて書かれる研究者なんですけど、対象を客観的に書くというより対象の中に入り込んで書くタイプの方です。あと、参加アーティストの中村理さん、清水恵みさん、佐々木でお送りします。まず原島さんからイベント全体でもそれぞれの参加アーティストでも、感想があったらお聞きしたいです。
原島:今日はみなさん、どうもありがとうございました。貴重なものを見せて頂き、とても楽しかったです。最初に佐々木さんから話が来た時、生成AIと即興表現が対峙するような構造だと聞いてて...
佐:そうですね。「即興と生命/AI」という、即興と生命、それとAIとで二項対立を立てていました。大切なことなのに当日パンフレットに書き忘れてしまったので(汗)、前提としてお客さんにもお伝えしておきます。
原:当日パンフの文章、「生成AIによって、今後ますます「芸術(人間も?)」は変形し狭められていくと思います。しかし、AIは「生命活動そのもの」としての即興表現を模倣はできても生成できない。即興表現は、揺らぎや迷い、そして未知なるものに触れようという人間の営み、そのものだと思います」という佐々木さんの文章、その通りだと思いながら読ませていただきました。
佐:ありがとうございます
原:3人のパフォーマンスを拝見して一番感じたのは、即興というのは簡単なことではない、即興は難しい、ということです。私たちは、生成AIと人間的な表現を比べたくなります。機械と人間を区別しようとか、これは人間的な表現なんだとか。AIが人間の仕事を奪うのではないかと不安になることもある。AIは、イラストとか映像とか、芸術の領域にもすでに影響を与えています。このときまず素朴に、即興みたいなものはAIにはできないんじゃないか、と考えることもあるでしょう。私も今日ここに来るまでそういう風に思っていました。しかし、こういう場、即興をやっている場に来て目の当たりにして思うのは、機械には即興はできないんだ、人間にはできるんだということじゃなくて、即興の怖さ、恐ろしさがあって、それを理解できるのが人なのだ、ということです。
佐:なるほど
原:もちろん機械には即興できないというのはその通りだと思います。AIは素晴らしい作品を生成できるけど、あれは何をしてるのかというと、過去の芸術作品やデータを集めてきて機械学習するわけです。パターンとして抽象化して学習して、今度は逆にパターンから何かを出すのが生成AIです。だから元になっているのは過去のデータ、過去の事実で、それに基づいて処理したものを出力している。だけど、人間は流れる「いま」の時間のなかを生きていて、ひねって何かを出そうとしなくても、みんな本来、即興的に生きているわけです。
佐:ふむふむ
原:たとえば、最初の中村さんの作品でお湯を沸かす、その時に生きている時間自体が作品だということに気づいてみよう、と。AIに脅かされていてもいなくても、あるいは、どんなにすごい作家とか作品とかがあっても、そういうのをひとまず傍において、私たちが生きている時間のすごさに気づいてみよう、そこからパワーが出てくるよと言っているように感じました。そこが即興表現とAIとがはっきり区別されるところだと思うんです。やっぱり今日実際に見て、簡単なことではないな、「生きている」ということがどれだけすごいか、不思議なことだなと思いました。
佐:ありがとうございます。個人的に、清水さんが当日パンフレットの文章で「即興を突き詰めるとLIFEに拡散する」と書かれていたんですけど、私あんまりその言葉に共感できないんですよね。中村さんも似た感覚があるのかなと思うんですけど、そこについて詳しくお伺いできますでしょうか。
清水:即興は、その時その時に「これだ!」って選びとるということを重要にしてるわけやないですか。私は行為、パフォーマンスをやっているのですが、フィンランドのアーティストで、一方は”Art”、もう一方には”Life”と書かれた道路標識の下で迷いながら右往左往するという映像作品があって、すごく共感できて、自分にとって印象に残っています。
佐:ほうほう
清:行為としてのパフォーマンス・アートでは、これはイスラエルのアーティストと話をしていた時のことなのだけど、水を飲んでくださいという指示に対して、以前の演劇的な大袈裟な動作をすると...それだと行為ではなくなってしまう。パフォーマンス・アートでよく言われたのは、その人の存在の強さがそのまま出ている動きとは何か?ということを大切にしていて。「自分自身」の動きをずっとしていると幸せなんだけど、そうなるとそれはLIFEに拡散していくというか、LIFEと地続きなことだな、と思ったんです。
佐:デフォルメすると生活、LIFEと地続きじゃなくなる。もっと必然性のあることをやりたいということでしょうか?
清:そうですね。世界中の人が「自分自身」の動きをしていたら幸せだな〜とか思うんですけど(笑)たとえば、デフォルメした動作のなかでは、「そこに『自分自身』はあるのか」ということを思うんですよ。逆に、「自分自身」の動きを求めて、それで生活している人がわざわざ、人前に出て何かをやる時、何か指標が必要になると思った。その場合、「人以外に向けてやる」っていうのが、今の自分の中では指標、きっかけになるかな、と。
佐:今日はお友達の植物(=持ち込みの植木鉢)と一緒だったんですよね?
清:そうですね。もう、しまっちゃいましたが。全体性みたいなものを客観的に感じ取れるようにそこに置く。何か、自分にとってのきっかけになればいいなと思ってました。
佐:ありがとうございます。中村さんは普段SNSでお湯を沸かす映像をあげてますよね
中村:僕は絵、イラストの仕事と、ダンサーとして舞台活動があって。コロナ以降SNSで発信してます。理由はいろいろあるのですが、コロナ禍で舞台が中止になったり、次の仕事がいつ入るかわからない、という状況で、舞台で踊らないとダンサーじゃないのかなぁ?という不安が生まれて、もっと生活と、自分が踊ることとを互いに近づけたいと思いました。
佐:なるほど
中:それで何に「ダンス」「おどり」を感じるかということを考えて、それで植物とか人間以外の生き物と踊ったりしてもいいかもなというようなことを思ってたんですよね。あるとき家で炊飯器をセットしてから散歩に出て、家に帰ったらご飯が炊けてるなとか、湯気がふわっと出るところを想像して、ダンスに近いかもしれないな、と思って。家に帰ってから炊き立てのご飯と踊ってみたら即興で人と踊る時の喜びに近いなと気づけた。
佐:ほうほう
中:小豆炊いたりするんですけど、2時間とかの間に豆が変化していく、それと一緒に即興セッションすると、人と踊った時のように色んなことが見つかるなと。変化していく小豆を放ったらかしにして踊ってても虚しいので...
佐:小豆と接点を持っているということでしょうか?
中:そうです。どうやったら小豆と接点を持てるか、というのを探す感じというか。小豆炊いてるときの、だんだん音が出てきたり、音がリズムになったり、豆の振動に合わせて踊る。そういうものをどうやって感じていこうかな、どうやって会話していこうかなと思ってますね。
あと、僕は料理を目分量で作るので、そのときそのときの料理自体を即興のように感じてます。今日はほうれん草が新鮮だから、味濃くしないで茹でただけで食べようかな、とか。
佐:なるほど
中:なので清水さんのLIFEに拡散していく、という感じは近いかなと思ってます。おどり、アートの中にも生活につながるものがあるし、生活の中にもアートに通じるものがある、と思いますね。
佐:なるほど、ありがとうございます
原:お二人とも、暮らしの中でも生命的なもの、感覚と表現をつなげているというのが、たたずまい、雰囲気にも表れていますよね。それが素直に発露されているのは素晴らしいなと思いました。
清、中:笑
原:佐々木さんはちょっと違うのかな?
佐:そうですね、お二人とは違うとは自分でも思うんですが...
原:LIFEと言っても、暮らしの延長線上に表現があるような、安心できる感じとは違うのかなと思いました。恐ろしさというか、畏れ多さというか、そこからパワーをもらってる感じがしたんですよね。
佐:なるほどなるほど
原:「チーン」ってやつを鳴らさないと、大変なことになっちゃうからね(笑)
佐:そうだね(笑)
原:なんていうのかな...
清:「チーン」ってやるタイミングが読めたり、読めなかったりが面白かった
佐:そうですね。お客さんを無視というか、いてもいなくても同じみたいな時間も作っていて、そうじゃないと向き合えないという感覚なんですけど。
清:ほうほう
佐:今回、本番に向けてのリハーサルを重ねていたんですけど、もちろん即興だから毎回違うんだけど、本番はまた全然違うなと思いました。中村さんと清水さんが紡いでくれたそれまでの時間の流れを受け取る、というのは人間的なのかなと思ったんですけど、どうでしょうか?
原:人間的というのは?
佐:取捨選択はあるんだけど、それまでの時間を汲み取って判断するというのが...そう!でもさっきの原島さんの話で思ったんだけど、過去のデータからAIが生成するというのは、自分が過去のリハーサルの時間とかから判断して現在選ぶことを決めてるのと同じなのでは、とは思ったんだよね
原:そう言っちゃうとたしかに似て聞こえるんだけど、全然違うことだと思っていて。たとえば、佐々木さんがいま言ったように前のパフォーマンスで場が出来上がっていって自分が本番を迎えるっていうのは、前の人がこういうことやったっていう分析から計算したりして自分がやることを決めてるわけではないと思うんですよね。
佐:なるほど
原:そうじゃなくて、自分の自意識みたいなのを低く落として、この場そのものが求めている為すべきことを、自分がやるみたいなことなんじゃないか。時間というか歴史というか、そういうものを踏まえて場が求めているものが素直に出るように削ぎ落としいく。
佐:ふむふむ
原:それは過去のデータの蓄積から推論したり計算したりというのとは違うでしょう。
佐:なるほど
原:ここはすごく大事なところだと思います。生成AIと人間との違いってそこだなと思っていて。AIはすごいけど、全てをオブジェクト=対象物として扱うことで計算しているわけです。でも、たとえば清水さんが当日パンフに書いていたように、人ではないものに向けてパフォーマンスするとなった時、対象物として扱うというのとは違う視点に立っているのではないかと思うのです。それは「サブジェクト=見てる主体」と「オブジェクト=見られている客体」の関係としては捉えられない。
佐:ふむふむ
原:そういう視点を、ひとつには「すごいなぁ、神秘的だなぁ」とも言える。学問やってる人だったら「どうやってそれを人知で理解できるか?」に取り組むことになるのかもしれないし、もしかしたら、表現者であれば「どうやってそれを体現できるか?」に挑むことになるのかもしれませんね。
佐:ありがとうございます。清水さんは今日はどのくらい予め決めていたんですか?
清:何も決めてないですよ。持ち込みで使った物(自家製ピクルスや折り紙など)は、「なんかせんとあかんな」と思って用意しました(笑)
一同:笑
清:最初に予定立てていたのが全部ダメだったんですわ。体を敏感にさせなあかんとか、身体的エクササイズせなあかんとか。でも、怠けてるままの即興表現がなにかあるはずだ、と思ったんですよね。
佐:うんうん
清:そういう時、「ヨスガ」になるのは、その時その時に自分が「思った」ことだったりすると思うんですよね。だから、なにするかわからないけど、「思った」ものは持っていこうと思って。全部、「あ!」っていう気づきの積み重ねでやろうと思った。
佐:ふむふむ
清:だから何も決めてなかったし、すごく怖かったんですよね。ダメな自分を出すというのが。でも怖いのが大切だとは思ってました。
佐:それは清水さんがパフォーマンスやってきた中で、「こういうことはやってないな」とか「やってみたいな」みたいなことだったのでしょうか?
清:いや、私しばらくパフォーマンスやってなかったんですよ。一年半くらい山ばっかり登っていて。それで山登りしていた時に、必要最低限のものしか要らなくなるんですよね。
佐:ハイキングみたいな山登りじゃないんですよね
清:トレッキングですね。縦走が好きで、体力の限界まで無理して行ってみます。天気が悪い場合は、普段行ける所をあきらめなければならなくなります。でないと遭難しますから、その辺の見極めは全く人それぞれになります。そういう時、頼りになるのはとてもシンプルなことだったりするんですよ。ほんで、そこにある彫刻をみたりとか...
佐:ほうほう
清:「創るって何かな?」「行為とは何だろう?」ということは常に頭の片隅にあったので、そういう極限状況で自分が自分として立つ時に必要やって思うのは、「あ!」っていう気づきの積み重ね、それがないと下山できないなって思ったんですよね。
佐:いまのお話で、山の上に彫刻があるんですか?
清:そうそう、祠(ほこら)や石碑、狛犬や仏像など。山神様の信仰の場所ですからね。そういうの見た時に、現代美術は大抵、観る人に向けてっていう想定をしているんだけど、「創る」には人間じゃないものも対象に含んでいるのかなと思って。そっちの方が自分は好きやったんですよね。難しい解説が付いている作品なんかも観てたんですけど、もっと自分のなかに直接入ってくるような作品の方が好きやったんです。
佐:ほうほう
清:それで去年と一昨年は全然美術してなかったんですが、ずっと自分の中に残っている「あ!」の積み重ねみたいなもの、それだけしたらええかなって。今日はそれを試しました。
佐:ありがとうございます。中村さんはどのくらい決めていたんですか?
中:僕は今日は最初と最後にお湯沸かそうっていうのと、すーじんさんに音楽かけてもらおうっていうことですかね。普段、音楽かけて即興で踊ったりするんですけど、スポティファイとかシャッフルで流して知らない曲がかかった時に踊ると初々しくなったり全然離れているときとあって。そういうのが好きで、そういうことをやりたいなと思って。
清:うんうん
中:あとは、普段絵を描くので壁に貼ってみようかなとか、チェックポイントだけ決めていて、道中はどこを通るかわからないみたいな感じでやってみたんですけど、やってみると...えーと「即興は怖い」でしたっけ?
佐:即興の怖さがわかるのが人間ていう
中:そうそう、即興にある「怖さ」に対して、今日は安全装置着けすぎたなという反省はありますね(笑)
佐:ほうほう
中:一歩外したら死ぬかも...死なないけど、そういうやり方もあったのかなと2人の観ていて思いました。
清:即興をやってる時は身体に集中しているけど、そのとき自分の経験が自然と出ていると思うんですよ。AIはその時その時で状況を見て、判断できるのでしょうか。
原:人のように臨機応変に適応するというのは難しいです。そこまで臨機応変な汎用AIというのは、まだありませんし、これから実現するかどうかもわかりません。ただ、今のAIでも、ある程度なら環境に適応することは可能です。でも、「何を基準に」というのは設定しないといけなくて、つねに臨機応変に対応できるようにするのはすごく難しい。よく言われるのは、「フレーム問題」というのがあります。たとえば、もしいま右足を少しだけ動かしたら天井の色がピンクに変わるかもしれないなんてことは、私たちまず考えないじゃないですか。そんなこと「いま関係ない」と当たり前に思うかもしれません。でも、AIは「いま関係ないことは考えなくていいよ」って教えてあげなきゃいけない。そして、その「関係ない」というのが、いま何が関係あって何が関係ないのか、自分で判断できるようにしてあげなきゃいけない。そうでないと臨機応変には動けない。
佐:ほうほう
原:人は直観的に、いま大事なものとか、自分に必要なものを、活動しながら判断できる。たとえば、椅子を見てこれに座ろうとか、電球取り換える為にこの上に立とうとか思う。同じ椅子でも、その時々で、自分にとってどういう意味があって、それに対して自分がどう働きかけるかは、全然変わってきます。でもAIは、「これが何なのか」ということを理解するところから始めなきゃいけない。たとえば、世界中のありとあらゆる物事について、ありとあらゆる可能性を全てプログラムしようとしても、それはあまりに膨大すぎて無理なので、それならその都度その都度判断できるような、汎用的な考え方をプログラムしてみようとしても、これがまた難しい。というか、原理的にそんなことはできないかもしれない。だから、臨機応変にというときは、AIが適応すべき環境変動の範囲を、人の側があらかじめ限定しておいてあげるというのが、ひとつの方法です。
清:うんうん
原:たとえば自動運転車だと、車しか走らない環境なら比較的簡単に走れるけど、公道に出ると様々な状況がある。こっちから人が出てきて、避けたらあっちの人にぶつかるっていう時に何をすべきかという判断が難しい。人は頭で考えられなくても直観的に判断する。それは「人が生きている」っていうことの倫理性、道徳性に関わってくることだと思うんですよ。
佐:ふむふむ
原:何回も何回も同じ条件で「こういう状況だったらこうする」っていうことの繰り返しなんだったらロボットのように行動してるだけだけど、人は初めての環境でもいまここでなにをするべきか、自由に臨機応変に行為する。そこに初めて人の行為の責任や倫理が問われるということなんだと思います。
佐:なるほど。それは技術的に超えなければならないハードルが高そうだと考えられているということですかね?
原:現代のテクノロジーでは、技術的にかなり無理だとわかっている、というのが私の考えです。
佐:かなり無理だとわかってる!
原:だから、どういう風に環境の方を整えておくか、っていう方にシフトするのはひとつの方法だと思います。臨機応変にできなくても動けるっていう状況を用意する。もちろん、研究者も一枚岩ではないので、このまま機械学習が発展すれば先ほど言ったような「フレーム問題」は解決されるっていう人もいれば、原理的に無理だと言う人もいる。「問いの立て方が悪い」と言う人もいて、「フレームがないと臨機応変にできない」という考え自体が間違っているという立場もあります。
佐:へー
原:私としては、AIというのは計算機なので、計算じゃないことは原理的に難しいというのはあると思いますね。
佐:なるほどね
原:もっと言うと、「AIはテクノロジーの最先端」だと思いがちだけど、「テクノロジー」の最先端が、あらゆる「技術」の最先端なのかどうかも、考え方はひとつじゃない。AIに代表される「テクノロジー」は、「世界は論理的につくられている」というヨーロッパ的な世界観の中で発展してきた技術ですが、実は世界を広い視野で見ると、技術の捉え方はもっと多様です。だから、AIに無理なことがあっても、それで必ずしも技術的に不可能という結論にはならない。技術というのはもっと豊かなんです。
佐:すごいですね。技術やテクノロジー全般を論じる学問も原島さんの守備範囲なの?
原:関心はとてもあります。技術というのは人の生き方や世界観と密接に関わっている。技術が「テクノロジー」一種類しかないという世界観はめちゃくちゃ狭い世界観です。それを広げたい。
佐:ふむふむ
原:いま「多様性」ということが盛んに言われていますよね。生物多様性とかね。技術についても、「テクノロジー」だけじゃない多様性を考えていこうよということを論じてる人がいるんですよ。香港出身の哲学者、ユク・ホイさんです。
佐:はいはい
原:コスモテクニクス(宇宙技芸)っていう、宇宙論(コスモロジー)と技術は一体不可分の関係にあるんだという考え方を提唱しています。テクノロジーは、神様が世界を創って、世界は計算でできているという、古代ギリシアから続くヨーロッパ的な宇宙論と切っても切れないわけですが、たとえば中国には中国の宇宙論と技術の歴史があるわけです。
佐:なるほど
原:また、西垣通さんという情報学者は、日本はかつて近代化でテクノロジーを取り入れたときに「和魂洋才」なんて言われて、今でもそうですが、科学や技術の上澄みだけ学ぼうとしてきたけれど、それは間違いで、テクノロジーは精神性や世界観と密接に関わっているから、その深いところまできちんと向き合わないといけない、ということを論じています。
佐:なるほど。文化は土地と密接に結びついているというイメージが私はあるのですが、技術も似たように土地での歴史や思想と切り離せないということでしょうか?
原:そうですね。ローカルなものだと思います。ただ、必ずしも土地に縛られてはいないのかなとは思います。
佐:なるほど
清:医学はわかりやすいですよね。中国とインドでまた違うし。
原:たしかに医学は端的にそういうところがありますね。
佐:たしかに。清水さんは中国行かれていた時は医療ってどんな選択肢だったんですか?
清:中国医学とかマッサージ屋さんとか、身近でしたね。西洋医学は手っ取り早いけど根本から治らへんみたいな感じがありましたね。元気が出ない時は、生きたドジョウを食べなさい!みたいな(笑)
佐:(笑)中国はちゃんと根付いてるんですね。実はパートナーが耳ツボにはまっているんですが、施術受ける前と後で治療してもらった人の顔が明確に変わるんですよね。西洋医学的には根拠のないことだと思うんですけど、効果がはっきりあって。では最後にお客さんで感想や質問などあったらお聞きしたいのですが。
清:ピクルスのレシピとか(笑)
一同:(笑)
(パフォーマンス内容についての質問だったので割愛)
参加アーティスト プロフィール
中村理
ダンサー/絵描き
和光大学表現学部芸術学科卒業。
これまでに様々な振付家/演出家の作品に出演。’22には自身初のソロ公演を開催。近年の主な出演作としては『導かれるように間違う』(松井周 作/近藤良平 演出)、『ALIEN MIRROR BALLISM』(岩渕貞太振付) などがある。
目に見えるもの/見えぬものの手触りや重さを手がかりに、生活の中から踊りにつながる身体の時間を探しつづけている。(プロフ写真撮影:田中洋二)
清水恵み
山水画を主軸にドローイングとパフォーマンスの手法で制作をおこなう。
1999年宮古島で制作と個展、2001年から中国杭州‐北京へ。2016年から東京。
海外で必要だったボディランゲージと、中国で書の身体性および行為芸術(パフォーマンス)に出会い、主に海外にて作品を制作、発表。2019年から縦走登山と、修験道や古道巡りを開始。山との関わり、人でないモノに対して作ること、「山を歩く」という即興性の高い行為を平面に落とし込む山水画との関係についてドローイングとパフォーマンスを制作。
佐々木すーじん
音楽家/scscs代表。早稲田大学第二文学部思想・宗教系専修卒。在学時にscscs(すくすくす)結成。ロック・バンドの枠に収まらない独自性でライブハウスのみならず劇場やギャラリーなどで精力的に活動。ソロ作品として、日用品を使ったライブ・インスタレーション"a440pjt"、不安定な足場から小物をコップに落とし続ける『落々』、呼吸音で構成された譜面”kq”を発表している。 千代田芸術祭2014 山川冬樹賞受賞(scscsにて)。
トーク・ゲスト プロフィール
原島大輔
著書に、『未来社会と「意味」の境界』(共著、勁草書房、2023年)、『メディア論の冒険者たち』(共著、東京大学出版会、2023年)、『クリティカル・ワード メディア論』(共著、フィルムアート社、2021年)、『AI時代の「自律性」』(共著、勁草書房、2019年)、『基礎情報学のフロンティア』(共著、東京大学出版会、2018年)など。訳書に、ユク・ホイ『再帰性と偶然性』(青土社、2022年)、ティム・インゴルド『生きていること』(共訳、左右社、2021年)など。