2023/10/21 ワークショップ・レビュー

佐々木すーじんのワークショップで何が起こったか

文・蜂巣もも



 佐々木すーじんが講師をつとめるワークショップは、秩父宮記念市民会館にて3時間ほど行われた。

 ワークショップの冒頭は、ダンスや演劇のウォーミングアップのように身体をほぐす時間から始まった。呼吸しながら、肋や胸など息を体のどこに送るか具体的に指定されて、吸う、吐くを試みる。

 数日前から労働して少し固まった、私の肋付近の筋肉は、ボキボキ音をたてて広がった。ストレッチはしていないのに、呼吸だけで体が変わり、ほぐれていく。


 次に、佐々木の書いた譜面『kq』の一節を佐々木が読み上げた。

 『kq』は呼吸を扱った譜面で、読み上げた箇所は冒頭の「Direction」。どのように書かれたことを実行すればよいか、演劇や音楽をやったことがない人でも実行出来るように、優しく書き込まれた部分である。

「Direction」


 次に、普段聞き流している周囲の音をよく聞いてみる時間。ホールの中から始まり、会館の様々な場所に行って、耳をすませる。

 ホールの外をオートバイがカタカタ通り過ぎる音、

 人がどこかでお話している音、

 風の音、木の葉のザワザワ揺れる音。

 その日は雲がゆったり動いて、心地の良い秋の日だった。


会場のいろんなものを発見する。職員の方々も、思い思いに過ごしている。


 その後ホールに戻り、穏やかな外の空気を一旦区切るようにして、じっくりと本編に入っていった。

 本編では、佐々木から音楽に必要なこととして、「譜面」「調和」というキーワードが提出された。

 譜面は、読んだ者が再現できる音とその出し方を指示するもの。

 では「調和」は?

 これは非常に抽象的な言葉で、佐々木はまずこれはなんだと思う?という投げかけを行った。

 それに触発された参加者の言葉がいくつか出たが、佐々木によって、それは一体何?と何度も問い直された。

 初め参加者は、聞き流されて当然、くらいの気持ちで発言して、それがどれだけ本気で発したものか分からず流れていきそうだったが、佐々木はその言葉を何度も聞き返し、一つ発言しては、振り返り、問い直し、みなが思考を反芻する、しがみつくような対話の時間となった。

 佐々木が講師として仕掛けた部分もあるだろうが、その状況は誰も一歩先どうなるか分からない危うさがあって、緊張しつつも、参加者と講師が対話を通してひたすら向き合う時間となった。

 このような対話は、一般のワークショップで、講師と参加者(かつ今回の参加者は中学生、高校生)との間で、起こりうるものだろうか?わたしは他のワークショップでは見たことがなかった。また、今まで佐々木のワークショップを何度か見、参加してきたが、その場でもなかった光景だった。


[その場で話されたこと、音楽にとっての調和]

 「調和」とは、そもそもなんなのか?

 混ざっているもの、ということではないか、

 影響されている、ということではないか、

 馴染んでいくものではないか、

 みんなの認識が統合されるものではないか、

 結果を生むものでは、

 調和のためには、個性が必要なのではないか(個性ってそもそもなに?自分が信じられるもの?)、

 佐々木が、それは本当か、それはなにか、とボールを投げてくる。参加者も講師も、みなの頭がギシギシと音がなっていたと思う。むむむむむむ…

 音楽ってなんなのか。

 調和ってなんなのか。


[そのあと]

 みんなでかなり苦しんだ後に、その「調和」を試してみることになった。

 みんなで思い思いの譜面を書く。音楽になるよう、「調和されるよう」に書かれた譜面は、いろんな形態をしていて、それぞれ特徴があって面白い。


 参加者は以下の二点で盛り上がった。

 ・他者が実践出来るよう書かれた譜面から、その意図を汲み取り、実践することの楽しさ。

 ・実際やってみたら、うまくいった実践と、うまくいかなかった実践があった。


 頭の中で想像して分からなかったものが立体的に広がった。

 私は傍で見ているだけだったが、見ているだけでもとても楽しかった。

 参加者はやってみれることにウキウキしていて、とても楽しそうだった。いろんな発見に目を丸くしていた。


それぞれの譜面を見合う。実践しては振り返る。


 結果的にワークショップは、佐々木の仮説、譜面と調和の実践して終わった。

 思考と、実践と、振り返りの相互でやり取りする時間がそこにあった。

 今回のワークショップに『kq』/呼吸の実践がすり合わさるとどうなるのだろうか。


[呼吸と音楽についての思考]

 呼吸と音楽はそれだけでは接続しない。

 無理に二つを繋げられはするが、それらが意味するところはそれぞれ別物である。

 呼吸は生きている者ならば常にそばにあるもの。なくすことはできない。身体の中を通って、生きるエネルギーに使われて、そして吐き出される。

 吸う、吐くという二つの行為は、二つの作業に分類できるが、吸う、吐く、どちらとも言えないあわいの時間も存在する。他に意識がいって、呼吸を無意識でしている時。よく意識し直せば二つの作業が現れるが、無意識に呼吸が含まれた瞬間、もやもやとした状態が存在する。

 また、呼吸を意識すると、身体へのこわばりが緩まり、心が楽になる作用がある。


 音楽はなんだろう。

 一つ一つの音に目を向ければ音楽ではなく、それは音である。

 それでも、聞き手が少し遠くを見るような(その場の空間や演奏者、楽器、観客含めた)なにか全体感への想像が、音楽、と思わせる。


 私自身は、10年以上社会や労働に揉まれ、呼吸を緩やかに行うことが、体や心に深く影響し、それによって生きることを続けられてきた認識があるが、参加した中学生と高校生たちが呼吸をどのように捉えるのか、あるいは社会(自分の身の回り)をどのように捉えるのか、とても気になる。

 個人の視点や経験が、呼吸の捉え方を広げ、個別の差異が生まれ、実践が「作品」としての形を生むことになるだろう。